泉旺同窓会 東京学芸大学教育学部附属大泉中学校
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2009年9月掲載
読書感想文と創作文集「はだしの女の子」の思い出
 もう卒業して40年近くになる。HPによれば、今年3月母校はいわば発展的解消により国際中等教育学校に生まれ変わったという。寂しくもあり、また多少なりとも帰国子女教育の創世期の実験台になれた事を嬉しくも思う。最近、ビジネス文章以外の文章を書いた事がなく、拙い文章しか書けない自分だが、40年前の思い出に少し覚えている事を綴る事としたい。

海外から帰国後、中2に編入させて頂いたが、当時の2年4組は、19人1クラスで10カ国以上の国から帰ってきた自由奔放の生徒たちの集まりだった。担任の大川先生、池田先生の両先生はもとより、指導にあたられた国語の増田先生、近藤先生、数学の茂木先生、若林先生、酒井先生、英語の野沢先生、社会の鳥谷先生、新妻先生、理科の志村先生他 多くの先生方にとって、いわば標準規格外の生徒たちに日本の文化に親しませ、普通クラスの生徒に追い付き、追い越す事を目標に、大変なご苦労で指導されたと、今も感謝の念で一杯である。先生方や当時の生活の話を書き出すときりがないが、その中で今回は、中2の国語の授業について思い出を少し書かせていただこう。

当時中2の国語は、練馬区の公立中でも教鞭をとられたご経験のある増田先生が担当された。その読書教育は独特で、教科書の勉強に加えて、週1回、読書と感想文提出の課題を課された。海外から戻ったばかりの生徒にとって、週1の読書とあらすじ、感想を書く習慣をつける事は、かなり厳しいものであったが、今思えば、その後の読解力と文章を書く力は大いに養われたと感謝している。先生は、どんなお忙しくても、必ず全生徒の感想文に目を通し、良い所、共感できる所は横に赤線を引いて返して下さった事を良く覚えている。
また、学年末には、1年の集大成として、全クラスに小説の創作の課題をだされた。自分は、書く題材もなく、今思えば、大胆にも、当時抱いていたある人への淡い思いを学園小説にして提出した。今では、携帯やメールもあり、異性への告白も当たり前のようにマスコミに登場するが、当時はそんな文明の利器も無かったし、男兄弟に育ち、ある意味で「恋に恋する」状態以上を抜け出せなかった自分を主人公に、附高に進む約束をする所で終るハッピーエンド仕立てに作った創作を増田先生は、「文章はぎこちないが、気持ちはこもっている」と評価くださり、周囲の先生にも紹介してくださったことを覚えている。もっとも、実在する人物が多く登場し、文集に載せるにはあまりに影響があり過ぎたため、文集の佳作作品リストにタイトルと要旨だけを掲載して頂いた。実態もハッピーエンドではなかった事も付け加えておこう。増田先生が命名された文集名「はだしの女の子」の名前とともに、当時が今の事のように懐かしく思い出される。また、もう時効かもしれないが、胸をときめかせてくれた当時の仲間たちに今一度、お礼と迷惑をかけたお詫びをしたい。

思い出を綴れば、マラソン大会や修学旅行での十和田湖のボート乗りの約束等 他にも色々でてくるが、また別の機会に譲る事とし、読書と文集に纏わる思い出を、小恥ずかしくもあるが、感受性豊かだった当時の一記憶として書き留める事としたい 。

21期 山形久雄
2009年6月掲載
附属中最後の卒業式と閉校式

私は附属大泉中の学校評議員をしていることから、去る3月13日(金)の、附属中最後の卒業式と閉校式に出席してまいりました。
以下、順不同ですが、簡単にご報告いたします。

別添資料の1ページ目・下の資料は、閉校記念のどら焼きに入っていました。
どら焼きは、表にヒマラヤ杉がデザインされ、裏は校章がデザインされていました。

私の記憶では、校章は、白地に菊の花のデザインで、附中と刻まれていたと思います。
校章も変わり、いつも歌う校歌も、「秩父の山なみ」から「緑陰深き」に変わっていました。

校舎は、現在、附属国際中等教育学校として生まれ変わるため、耐震工事と改装工事を行っています。
職員室や放送室、図書室のあったあたりの、グラウンドに面した廊下にある各階の部屋は、それぞれ各教科の職員室となり、購買室のあたりの廊下の角付近はトイレとなります。

思い出の購買室のカウンターに触れてみました。
あのセーラー服も、男子のブレザーもこれでなくなります。

式には、大川先生、茂木先生、若林先生が出席されていました。

秩父の山なみも緑陰深きも、正式に歌うのはこれで最後です。

全部歌える自分に驚く暇もなく、不覚にも涙がこぼれてきました。
同窓会会長の方、卒業生で関係者の方々も、皆さん、泣いていました。

閉校式ということで、学芸大学の学長が出席しておられました。
学長が出席するのは、私の経験では最初で最後でした。

卒業生の歌も見事でした。
式次第にはありませんが、卒業生が最後に退場する前に、
「さようなら皆様 またいつか会う日まで
懐かしい思い出を いつまでも胸に秘めて
さよなら 皆様」

という、私たちも卒業式で歌った歌をハモって歌ってくれました。
一気にタイムスリップしました。

学校の建物は形を変えて残りますが、附属大泉中学校は、私たちの記憶の中だけで残ることとなりました。

以上、簡単ですが、ご報告いたします。


※別添資料はこちらからご覧になれます。
(ご覧になるためにはAdobe社のAdobe Readerが必要です。お持ちでない方はコチラからダウンロードしてください。)
22期 林 智子(旧姓 逆井)
2009年6月掲載
才女と凡才が京都で再会
 ちょっと前のことですが、昨年(2008年)10月28日、京都大学経済学部に特別講義の講師として招かれました。おりしも株価が大暴落しつつあった真っ最中で、資産運用をテーマに金融経済学の講義をするのは、さながら経済学を現場から実況中継しているようでした。「100年に一度の絶好の勉強の機会だから」と言うと、京大の学生諸君は目を輝かせて講義に聴き入ってくれました。
それはそうとして、その数週間前、講義の準備をしているときに、ふと思い出したのは同期の竹井恵美子さんのこと。知人たちの話によれば、たしか京都か大阪で大学教授になっているはず。附属大泉小では同級で中学・高校も附属の同期でしたが、おそらく高校卒業以来…ということは35年くらいお会いしていない。竹井さんは小学校の頃から才女で、文才にも長けていて作文集が圧巻(ホントに厚い)だった記憶があります。
そこでインターネット検索でなんとか探し当て、Eメールで連絡。講義が終った後で、竹井さんお薦めの「百足屋(むかでや)」というしゃれた京料理のお店でお会いすることになりました。
竹井さんは千葉大を出て京大の大学院に進み農学博士を取得。今は大阪学院大学流通科学部教授です。専門分野はイネ科の雑穀だそうで、雑穀研究会という学会の会長も務めておられます。お会いした当日まで台湾に出張されていて、帰国した足でお店に来られたとのこと。台湾に何をしに行っていたのかと尋ねると、「台湾にしか自生していない雑穀類を調べるため、台湾の大学研究者と現地調査に行っていた」とのこと。すごい!!
ほぼ35年ぶりの再会に話がはずんで、学校時代の思い出話やら大学卒業後のお互いの人生やら、タイムマシンに乗って飛び回っているかのようでした。京都の近くにお住まいなので同期会にはなかなか出て来られないとのことですが、「ぜひ一度顔をだしてください」とお願いしておきました。
ところで、竹井さんは学問の道まっしぐらで農学博士をとられましたが、小生は銀行員から証券アナリストとファンドマネジャーに転じ、その後独立して外資系金融情報コンサルティング会社を経営しながら大学講師も務め…と、さんざん寄り道しまくったあげく、昨年53歳にしてやっと経済学博士を取得。「少年老い易く、学成りがたし」才女と凡才の再会で実感しました。
22期 山口勝業

2009年3月掲載
大泉中学校の思い出
 大泉中学校の思い出を……と云われて、思い出すことはたくさんありますが、中でも一番に浮かんでくるのは、週一回、昼休みのフォークダンスでしょうか。それが何期に始まり、いつまで続いたのか定かではありませんが(多分もう、行なわれてはいないでしょう)、少なくとも私たちの頃(二十二期です)には、結構な参加者がありました。放送委員会が呼びかけると、三々五々、男女の生徒が外に出て来ます。今だったらちょっと考えにくいのですが、男子もちゃんと出てきてくれるのです。女の子同士で組まなくてもちょうど数が合うくらい。そしてオクラホマミキサーがかかります。何回か繰り返されます。あと少しで、素敵な上級生の男子のところまで行ける……というところで、大抵、逆回りに遠ざかってゆく別の曲がかかるのでした。
 中学生が教員に強制されたわけでもなく、自然に集まってきてダンスする、という情景が当時の附属大泉中学校をよく象徴しているように思います。のどかで、万事ゆったりしていて、ほとんどうるさいことは言われず、かと言って放縦すぎもせず、良いバランスとセンスの中で私たちは育ちました。生徒総会が紛糾して、ものすごく長い時間続いたことをおぼろげながら覚えていますが、総じて附中の先生方は、決して私たちをせきたてたり、中途で腰を折ったりすることなく、いつも辛抱強く見守って下さったものでした。
 それは学習の面でも同様でした。近頃TVで「部活や学校が忙しくて勉強しているヒマがない」という塾のCMを聞いて、心の底から驚いてしまいましたが、私たちは幸いにも、「受験勉強」ではなく本物の「学問」の「種」をまいてもらったのでした。
 運動のトレーニングと一緒で、負荷のかからないトレーニング、楽々こなせてしまうメニューは何の鍛練にもなりません。近頃の「分かりやすい学習」の陥りやすい罠だと思いますが、その点、私たちの受けた授業は、難解すぎることもなく、かと言って手取り足取りではなく、背伸びをしたら手が届きそうな感じのする、負荷のかかり方が絶妙の教育でした。
 そんな中、たくさんの教育実習生が来られるのも、学校の性質上当然のことでしたが、なかなか楽しく授業を受けた記憶があります。もっとも、附中で教育実習をしても、あまり良い経験にはならなかっただろうと思いますが(生徒の質が標準的でないので)。……そう言えば、全然面白い話ではないのですが、こんな一コマが、ふと蘇ってきました。
 阿川弘之の「スズキとオコゼ」という教材を実習生の方(女性)が教えてくれた時のことです。その作品の主人公は誰か、というところで、図に乗った私たちは口々にいい加減なことを叫び出しました。何を言ってもその先生が黒板に書いて下さるので、悪ノリしてしまったのです。しまいには、釣り人がエサとして針につけるキュウリのことまで(キュウリで魚?)人間扱いして、「キュウリ~キュウリ~!」と絶叫し、彼女は困惑の忍び笑いをもらしつつ、とうとう黒板に「キュウリ」と書いてくれました。そして次の時間は、その実習生でなく、近藤実先生のまとめ授業。
 この混乱がどう収拾されるのだろうと、私は密かに期待していました。
 すると近藤先生は、「主人公」とはどういうものかを、ややぶっきらぼうな調子で、しかも論旨明快に話して下さりつつ、「何でキュウリが主人公なんだ」と(しょうもないことを言うなよ、というヤレヤレ口調で)呟くや、さっと黒板の「キュウリ」の文字を消してしまわれたのでした。
 前の時間の混乱など、嘘のようでした。その何とも言えない、余裕と、貫祿と、学識の香り……
 なぜか、「先生って偉いんだなぁ」と私は納得してしまいました。なんだそれ? と思われるでしょうか。でも、十五歳の眼に、そう見えたのです。
 先生はエライんだ、と思わせることを強制しなくても、私のような極端にナマイキな知ったかぶりの生徒さえ一歩引いてしまうだけの自然な(流行りの言葉で申せば)「品格」。そういうものが附中の先生方には備わっておられました。そして、そういう先生方に見守られつつ、有形無形にさまざまなことを吸収して育った私たちは、相当に幸福な中学生だったと思っています。
22期 大畑郁子
2008年12月掲載
附中創設の頃
① 時代背景
大泉の附属中学が生まれたのは1947年。第二次大戦で日本が連合軍に敗れてからまだ2年。アメリカによる占領下のことでした。
  私は小学校(当時の国民学校)も大泉の附属で、戦争中は学校ごと群馬県に避難していました。ところが大泉へかえってみれば、後で附中の校庭を兼ねることになる附小の校庭にはアメリカ軍の戦車が4~5台駐留し、小銃を小脇にした青い目の兵士が、周囲を闊歩していました。教室のガラスは戦争中の爆撃であちこちが破れ、そこには代わりに新聞紙が貼ってありました。子供心に、これが敗戦ということかと、納得した光景でした。

② 学校の創設
食べるものも、着るものも、住むところも乏しい戦後の混乱の中で、附中は生まれました。とはいえ、新校舎などあるわけもなく、附小の片隅の2教室を借りての誕生でした。ついこの間まで自分が居た小学校の教室から、廊下続きで数メートルしか離れていないし、クラスメートも附小の持ち上がりで、正直言ってあまり中学生になったという気分ではありませんでした。今だに忘れられないのは、給食の時間になると、小学校の方からいい匂いがただよってくることで、お腹を空かしていた私たちは、給食のない中学生になったことを悔やみさえしたものでした。

③ 日本国憲法と共に
附中が生まれた1947年という年は、日本の正史上画期的な年で、現日本国憲法が施行され、その精神にのっとって教育基本法が制定されます。つまり日本という国がリセットされた年でした。
価値の180度転換がおこり、天皇は神から人になり、独裁国家から民主国家へ、軍国主義 から平和主義へと変化します。教育の目標のひとつにしても、敗戦までは、早い話が〈天皇と国家のために、よろこんで命を捧げるような国民〉を育てれば良かったわけですが、さて新憲法下のこれからは、いったいどういう日本人を育てれば良いのか?教育界を含め、目標を失って日本中が右往左往していたといってもよいと思います。ですから附中が発足すると、全国から見学者が押し寄せ、教室の後はいつも人の山でした。一期生は、「何を目標にどう教えたらよいか」という戦後教育のモデルケースでもあったのです。当時の松原主事先生は、口ぐせのように「一期生、間違ってもらっちゃ困る」といわれました。今思えば、もし附中の教育が方向を間違えれば、それは日本の戦後教育が方向を間違えることに等しかったのです。
当時の私たちは知りませんでしたが、生徒の下校後も、先生方は夜教育研究会を開かれ、それが深夜に及ぶことも珍しくなかったとか。これは先日の同期会で茂木先生から伺った話ですが、ある夜練馬駅で終バスに乗り遅れた先生は、歩いて沼袋のご自宅へ向かわれる途中、ちょっとひと休みされた公園のべンチで連日の疲労からつい眠りこみ、気がついたら時は夜がしらじらと明けていて、いたしかたなくその公園から学校へ逆もどりされたこともあったとか。当時の先生は21歳、月給¥2100だったそうです。

④ 1期生の学校生活
そんな先生方のご苦労など露知らず、私たち一期生は、ようやく訪れた平和、ようやく与えられた自由、そして男女平等(それまでは男尊女卑)を満喫していました。
いちばん大きな変化は、男女共学になったこと。(それまでは附小でも、3年になると男子組女子組に分かれていました)男女2人一組で同じ机に座らされるのも初めてで、お互いに関心のないフリをして、端と端に座ってそっぽを向いていたのも、今となってはほほ笑ましい思い出です。
2年の時に、ようやく新校舎が出来ました。大学の学生寮を改築した、うなぎの寝床のような教室でしたが、わたしたちにとっては、初めて得た誇らしい「我が家」でした。
まったく何もない状態からの出発だったので制服も校歌も校章も、生徒会規約もクラブ活動も、そしてこの同窓会も、当時の先生方と一期生が作ったものです。例えばテニスコートひとつにしても、自分たちで校庭の片隅を、重いローラを引いて土をならして作りました。何もないところから、すべて作ったので、1期生には「自分たちが作った学校」という自負があります。受験競争も今ほど激しくなく、ある意味ではやりがいのある3年間でした。
教育方針としては,activityという言葉が与えられました。辞書を引いてみると、積極性・自発性・活動的などとあり、反対語は消極的・受身です。
卒業して60年。振り返ってみれば、私自身受身で生きてきたことは一度もありません。企画畑を歩くことが多かった職業人としても、附中時代の、この何もないところからモノを創り出す体験が、どんなに役立ったことか。
きびしい時代でしたが、良い教育をしていただいたと思っています。
1期 鈴木桂子
2008年12月掲載
母校の名称に思う
 「入間川」は、飯能市や狭山市を流れる大きな川です。この川について地元の人に、「これは隅田川ですか」と尋ねたら、「違います」という答えが戻ってくることでしょう。
 逆に、隅田川流域の人に、「この川は入間川ですか」と聞いたら、けげんな顔をされることは間違いありません。
 しかし、実は、隅田川や荒川は、入間川の下流なのです。つまり、流れる水は同じもの。人工衛星のカメラで空高くから見れば、一本の川筋です。
 入間川ですら、さらにその上流に上れば「名栗川」と呼ばれます。石神井川や神田川も隅田川に注ぐ同じ水流です。
 このように、川の名称は、その川のそばで生活する人が異なれば、どんどん変わるものです。
 組織の名称も同じです。時代と共に、扱う仕事の内容の変化と共に、さまざまに変わります。「東京通信工業」がSONYの創業時の名前であることを知っている人はどれだけいるでしょうか。
 このほど、私たちの母校である東京学芸大学付属大泉中学校が、形の上では廃校となり、中高一貫教育学校に改組されて、国際中等教育学校と名前が変わりました。このことにより、附属中学校の同窓会である泉旺会の位置づけをどのようにするべきか、役員の間でひとしきり議論されました。
 ご承知のように、結果としては、附属大泉中学校も国際中等教育学校も等しく母校として位置づけることになりました。
 私は、これを当然のことと思います。その理由は、先ほどの川の名称のたとえと同じです。名称や組織がどのように変わろうと、文科省(これも以前は文部省でした)の所轄にある同じ大学に付属する学校であり、教職員も、校舎の場所も変わっていないからです。大きな水の流れは変わっていないのです。
 学校の校風を決めるものは、創設者の理想、土地柄、全体のイメージなどさまざまな要因がありますが、いちばん大きいものは、教職員と生徒が一体となってかもしだす伝統的な雰囲気であり、教え学ぶ人の意識でありましょう。
 教育実習校として最先端の教育技術を導入し、最も進んだ内容を教えることのできる教員と、それに応えるにふさわしい資質を持った生徒たちが集う学校は、それほどたくさんありません。附属中学校と中等教育学校は、まさにそのような使命を持つ学校であり続けてきたのです。
 同窓生のひとりとして、これからもこの大きな水の流れを意識して、単なる懐古趣味に浸るのではなく、今私たちの時代を流れる川を見つめ、お世話になったその川のために何らかの役割をになうことができるように努めたいと思います。
11期 竹下光彦
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